【リポート①】 チャレキッズ&ゆあしっぷコラボセミナー《 働くをかんがえる〜博多ポチ丸氏〜 》
エアブラシアーティスト博多ポチ丸氏
令和元年7月7日、チャレキッズとゆあしっぷさんとのコラボ企画で実現した、企画『働くをかんがえる〜博多ポチ丸氏〜』を開催しました。
もともと、2月に開催したチャレキッズフェス2019にご参加いただいたことがキッカケで、ボランティアをしてくださっていたゆあしっぷの皆さんの目にとまり、その生き生きと自身の特性を武器にして起業されている姿に「ぜひお話が聞きたい」ということで企画に至りました。
ポチ丸さんが診断を受けたのは大人になってから、ということですが、どのようなキッカケで診断を受けることになったのか。これまでの歩みはどのようにされてこられたのか、いろいろと伺わせていただきました。
そんなポチ丸さんの紹介動画はこちら
作品集はこちらです。
では早速お話の様子を見ていきましょう。
エアブラシアーティスト博多ポチ丸氏
発達障がいの診断を受けいているエアブラシアーティスト。
ADHDとアスペルガーの診断を受けているそうです。
まわりからういていた幼少期
昔から変わり者と言われ、保育園時代から浮いていた。
そして、育ての親は母方の両親、祖父母に育てられた。
じつはそこにも理由がある。後ほど話します。
両親も祖父母も教師だった。
小学校時代にも通級学級などを利用していたが、祖父母に障がいという言葉にマイナスイメージがあったためか、自分に障がいがあるという告知は受けてこなかった。
祖父母に、学校で変わっていると言われると伝えても「変わってない、それがあんたの個性」と肯定的。
そして、何をしても許してもらえていた。
しかし、まわりとの関係がうまく行かず、小学3年生のとき、不登校となる。
仲間はずれにされていると感じた時期があった。
絵を描くのが好きになったのは小さな「恋」から
キッカケは通級学級で絵などを描いているとき。
好きだった女の子から絵を褒められた。
そこから絵が好きになった。
いつも周りに迷惑かけまくってたので、人に喜んでもらう、はじめての体験、それが「絵」だった。
仲間との出会い
中学3年生でも不登校になる。
まわりと合わない。
僕が伝えることが伝わらない。
ずれている。
今でもそうだが、人と何かをするとき、ズレてしまう。
人とのズレ、毎日毎日、理解してもらえないことに傷つき、いらだち、衝突し、仲間はずれにされる。
そして、学校へ行かなくなった。
その時、祖父が「好きなことをしていいぞ」となり、町のゴルフ場で練習をしたりしていた。
そうして、街に出ていると、同じように学校に行けていない奴らと出会うことになる。
いわゆるヤンキーな仲間だ。
そんな彼らは、自分のことを受け入れてくれた。
妙に話が合う。仲間はずれにされない。
そして、彼らはかっこよかった。
そこから、いわゆる不良仲間との付き合いが始まる。
夜は帰らない、未成年者での喫煙飲酒あたりまえ。バイクで警察につかまる。
祖父母に対しても激しかった。
ある日、悪友に呼ばれて出て行こうとしたとき、祖父に止められ。
「うるせー!もう出ていく!」と言うと、祖父は「出て行け!ちょっと待て!と言って、ガソリン代5,000円をくれた。
普通はありえないでしょ?
そんな祖父母が大好きだった。
そんなふうに小学校、幼稚園の時から味方してくれていた。
実は、母親は統合失調症。
とても精神的にマイナス思考だ。
そんな母親は祖父母に厳しく育てられた。何をしてもだめ、有名な大学に入りなさい。
そんな母は祖父に何も話せない。失敗が怖くて話さない。
その反動もあるのだろうが、祖父母は自分には何をやっても叱らなかった。
人生を変える出会い“ボクシング”
大牟田から福岡に出てきたのが18歳のとき。
祖父の手配などにもより、絵で短期大学に入学できた。
しかし、無気力だった。
毎日朝帰り、遊びまくって太り太りまくっていた。
遊びに遊び、遊び疲れた、お金もない。
そうなると無気力。およそ一ヶ月、ひたすら寝まくった。暇。。
そんな生活をしているとき、彼女に「太り過ぎ、痩せないと別れる」と言われた。
当然だ。自分でも落ちるところまで落ちたなと思っていた。
ここで何かをかえないと。
そう思って、やったことがボクシング。
フィットネスジムでも良かったが、「ボクシング」に憧れもあった。
今まで逃げてばかりだった自分を変えたい、ボクシングという厳しいスポーツへのあこがれとともに、なにかしら自分で決めたことをやろうと思った。
門をたたいた福岡ジム。チャンピオンなども排出しているジムだ。
持ち前の図々しさから会長に気に入ってもらえ、合宿などに参加していくうちに、ジムの会長から試合やってみないか、と言われた。
その時の名言「夢というのは、目標を持てば叶うもんだ」。と会長。
夢?
その会長は息子さんをチャンピオンに、その他の選手もチャンピオンにしてきていた。
なるほど、説得力がある。
わかりました。やります。
ということで、やってみた。
すぐに申し込んで、やり始めた。。
期日は決まっている、目標は優勝。
そう決まってきたら、やることは決まってくる。
目標達成のために小分けにして、やることを潰していく。そうやって言ったら。。
優勝してしまった。
このとき、人生の中で、自分の中で誤作動が起きた。
「ゆめをもって、進めば、ゆめは叶う」。
夢は小分けしたら叶うんだ。
そこから、トントン拍子に運命が変わった。
大学から進学のオファーが来た。
そして大学へ進学。
そこでも会長から「目標を持て」と言われた。
ボクシング以外で目標を持て。
みんなが笑うようなことでもいいから、目標は探すもんだ。
その時、「学校の先生」を思った。
親も祖父母も教師
ただ、、無理だろうな。
そう言うと、会長は「いや、やれると思うよ。だって、やったら取れるようになってるやないか。
教員免許は取れるもんやないんか?」
小分けしてやったら、教員免許とる、そのことを地元の友だちに話したら
「お前馬鹿じゃないの?いままで何やってきたかわかってんの?」
そりゃそうだ、学校生活に馴染めず全く逆のことをやってきたのだから。
でも、その時の自分は昔の自分とは違っていた。
誰かが無理だといった。そんな事いちいち考えない。
やりたいとなったら、想像して、やったらいい。
信じるのは、自分。
そうして、教員免許も無事合格した。そうすると、別れた父親から連絡が来た。
「自慢の息子だ」と言われた。
自分が警察に捕まったとき、「自分に息子はいません」と行っていた父親からそう言われた。
「人ってこんなに変わるの?と思ってしまった。
自分が変われば周りなんて勝手に変わってくれる。
そう思ったキッカケでもあった。
予想しなかった“挫折”からの“自立”
大学でもバンタム、フェザー、ライト級でチャンピオンになり、順調に戦績を重ね、いざプロボクサーになるためのテストを受けるという段階になった。
テストを受けるためのドクターチェックで、脳に嚢胞がある事がわかった
脳内出血を起こしたこともあった。
嚢胞があるということで、プロにはなれないことが確定してしまった。
「いやいや、ふざけんな!」
タイボクシングであればできる、という情報を得て、タイでやる!と言ったとき、
祖母が泣き崩れ、やめることを懇願された。
そこで、諦めることを選択した。
ボクシングを手放したら自分に何がある?
「教員免許をとったんだから教師になれよ」みんなそういった。
実際に、講師も務めた。
通信制の学校で美術の講師もやった。
しかし、わかっていた。
自分は学校で教える先生にはなれない。
やりたいことがやれないと態度に出る。我慢できない。
その時、思ったのが、「絵」だった。
そして大学院で絵を学ぼうと思って、大学院の先生のところに行く。
しかし、「これまで絵の勉強もしてなかったし、それで食べていけるほどになるのは無理でしょう」と言われてしまう。
とても悔しかった。だから、逆に絶対やってやる!とおもった。
周りの反対はもちろんあった。
公務員は硬い。社会的優遇もある。
学校の先生になって講師
公務員試験受ければいいやん
誰かに言われて何かをすることはできない。そういう人間。
僕の人生。だれも責任は取れない。親だって責任はとれない。
自分の生き方は、マイナスもプラスも自分で責任を持つ。
だから僕は社長になると決めた。
出だしは好調、毎日が給料日
そこからは全て自分でやっていった。
中高生の頃、バイク雑誌でみた「エアブラシ」に狙いを定めた。
意外と出だしは好調。
結婚式ラッシュ。友達が多く、いきなり月に30万円くらい稼げた。
持ち前の図々しさでイオンモールなどでも出展。
僕はその頃から大切なことを知っていた。
それは「ビジネススキルが大切だ」ということ。
お金にしていくこと、が大切であることを知っていた。
とにかく、僕がかっこいい、憧れる生活をしている社長さんに
片っ端から会いに行った。
そういう人たちが集まる場にも出向いた。
絵で食っていけなかったらら死んでしまう。
何十万するセミナーにも行った。
現金で払えない場合は分割でいいですか?と聞く。
そうやって、是が非でもビジネスをゼロから一をするを知っていくことに集中した。
やってきたことを成功と失敗に分ければ
ほとんど失敗。
でも、失敗を経験しているということが話せることが僕の一つの自慢
僕のように行き過ぎる人はあまりいない。
22でスタートし、24くらいには、月収50万くらい稼いでいた。
絵では稼げない、そう言われていた事が悔しかったから。
でも、逆にそこで稼げる方法を見いだせたことはオアシスに足を突っ込んでいる感じ。
性格すごく悪かったので、、、お金を稼げることがすごいと思っていた。
とにかく稼ぎたいと思っていた。。
25歳のとき。天神コアの物件の話がきた、勢いに乗っていた自分は店を持った。
正直、このとき「これでフェラーリ乗れちゃうな」と思った。
経営の仕方も知らなかった。
でも売上を上げれば大丈夫。。。そう思っていた。
しかし現実は違っていた。
これまで毎日現金を手にしていたが、商業施設はそうではない。
数ヶ月で支払いへの資金が底をついてしまい、物件を手放すことに。
ためていたお金がすべてパーになった。
さあ、どうする。。。
そこで選んだのが「路上」だった。
友達から「バイトすれば」とも言われたが嫌だった。今でも強烈に覚えている。
絵で食える自分に自信を持ちたい。
僕はこれしかない、という自信を持ちたかった。
きっと普通だったら、アルバイトやって一時的にお金貯めればいいんじゃない?となるだろう。
でも、僕は普通じゃない。
きっと、周りの意見も正しい。。お父さんやお母さんがいて、子どもを思って言うことも正しいのだろう。
でも、僕には僕の意見がある。
自分の人生に責任が取れるのは自分だけ。
父も母も先に亡くなっていく。自分の人生に最後まで付き合うのは自分だけ。
そんな自分の人生の選択を自分の意志を曲げてまで行うことは僕にはできない。
そう思って、やり続けてきた。
全ては自分に自信をもつことから
自立に向いている人はどんな人か、という話でいくと、
「変わっている人」だと思う。
実は僕は今日もアウトプットをしている、携帯でライブ配信をしています。
発達障害のマイナスにとらえている人も多いと思うが、僕は武器にしている。
ああ、こういうふうにもなれるんだ、と思ってもらえる。
まずは知ってもらう。知ってもらわないと何も生まれない。
その過程では嫌な思いもするだろう。
でもそんな事は気にしなくていい。
絵が上手い、向いているとかではなく、自分に自信を持つこと
ではどうすれば自信がもてるか?
それは、自分で自分に言い聞かせるしかない。
自分を褒めていく。
専門的な言葉では「アファメーション」とも言う。
(※アファメーションとは、肯定的な言葉を自分の内側に語りかける技術ですが、効果的に活用することによって、あなたの可能性や手にする結果を一気に高めることができます。
「肯定的な自己暗示」「肯定的な自己説得」「肯定的な自己宣言」)
俺はできる、できる、と思い続ける。
社会からは批判されてきた。あいつは頭がおかしい、変わっていると言われてきた。
人から馬鹿にされることもある、アンチな人も出てくる。
でも気にしなくていい。
結果さえだしていけば良い。失敗をいくら重ねても成功をいくつか積み重ねていけばそれが結果となっていく。
そうしていくと、アンチの人もいずれ消えていく。
目立てば目立つほど、嫌う人が出てくる。
しょうがない。ビビっても仕方がない。
ポチの事好き、という人がいたらラッキー!
常にそう思っている。
そしてもう一つ。
目立とう、目立とう、と思って発信したくらいで、認知は広がらない。
これから天神に出て、通行人に「僕ポチ丸です、ご存知ですか?」と訪ねたところで、100人中何人が知っていると思いますか?
ほぼゼロ。そのくらいのもの。
だから、数人に嫌われたからといって、気に病むことはない。
ほとんどの人が僕のことなんて無関心。
あなたのことも。
だから、他人のことなんて気にすることない。
自分がなりたい自分になるために、自分が動く、それだけ。
保護者の方からの相談が多い。うちの子もポチくんみたいになれればいいなと思うという。
でも、うちの子に無理だと思う、とも言う。
そのたびに思う。保護者の目が態度やふるまいが、こどもの夢や可能性を潰している可能性もある。
ドリームキラー という言葉。
愛があるからこそ、それが強い。
僕は祖父母に言われた。「お金に関しては一切何もしないよ」。
そう言われた時に、「そうか、なんとかするしかないな、、、」と思った。
行きていくことに対して恐怖を知った。
だから自分でなんとかしようと思えたんだと思う。
障がいがあって、ハブられたとしても、環境を変えれば良いと思う。
僕もハブられた結果、友だちができた。
そういった環境も、マイナスはプラスに変えられる。
異なる環境に逃げていい。
違う環境に行けばいい。
豚骨ラーメン、味噌ラーメン。醤油ラーメン、それぞれ嗜好が違ってあたりまえ。
向いていること、向いていないことがある。
そのきっかけづくりを僕でもしていけたらなと思う。
(リポートパーツ②につづく)
博多ポチ丸さんによるお仕事体験を2019年8月11日(日)に実施いたします!
博多ポチ丸さんによるお仕事体験を2019年8月11日(日)に実施いたします!
時間は13:30〜16:30
会場は福岡市中央区荒戸にあるふくふくプラザです。
詳しくは090-3415-3315(担当:中嶋)までご連絡ください!